平成11年度盛岡山車

 

 

※実は、この年のパレードが記念すべきmasaの山車初撮影の写真でございます。

当時、小学6年生の私が撮った写真ですので、掲載に当たり、若干の手直しはしてありますが、

何卒、画質・写真写り等ご容赦くださいますよう、お願いいたします。

盛岡市八幡町 い組 風流 雨の五郎

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演題解説

歌舞伎の長唄「雨の五郎」で「廓通いの五郎」とも言われる。

曽我五郎時致が、仇を狙う強さの内にも、金糸・銀糸の蝶の模様の着付けで、

化粧坂の少将の許へ通う華やかな場面の再現である。

 

 

見返し かむろ

演題解説

曽我五郎の仇討ちを手伝い、恋文の入った文箱を運ぶ禿(かむろ)の場面を飾る。

 

 

 

盛岡市旧馬町 一番組 風流 釣鐘弁慶

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演題解説

時は平安時代末期、源平の争いが激化の一途をたどる中、

三井寺と比叡山の僧侶達もまた、座主の相続をめぐって長い間争っていた。

その中、比叡山西塔の荒法師・武蔵坊弁慶(後に、源義経の従者になるが、この時代はまだ比叡山を破門されていない)

は、「よし、俺が三井寺の奴らをやっつけてやる」と一山の法師たちを引き連れ山を下り、、

自慢の怪力で三井寺の大鐘を引きずりあげた。

本年の山車は、怪力で釣鐘を担ぐ弁慶の姿を飾っている。

 

見返し 花咲爺

演題解説

「枯れ木に花を咲かせましょう」で有名な、おとぎ話の場面である。

 

盛岡市鉈屋町 め組 風流 義経八艘飛び

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演題解説

平安末期、源義経を総大将とする源氏は、平家追討の軍を進め、

「逆落とし」の奇襲で、一ノ谷を一挙に攻落し、屋島の戦いでは海戦にも勝利する。

敗走を重ねる平家は、壇ノ浦を最終決戦の場と定め、その一戦に賭けたのであるが、

激戦の末、二位の尼は幼帝を抱いて入水し、ここに源平の合戦が幕を閉じた。

この戦いにおいて、平家一の猛将と言われた能登守教経の急追を、

義経は燕が飛ぶが如く、ひらりひらりとかわし、次から次に船を飛び移ったと伝えられている。

さすがの能登守教経も、この「義経の八艘跳び」に驚嘆し、覚悟を決め、

源氏の兵の中でも三十人力と言われた安芸太郎・次郎兄弟を脇に抱え、

「貴様ら、死出の山の供をせよ」と、入水したと伝わる。

 

本年の山車は、壇ノ浦にて、源氏の総大将・源義経と、それを追う能登守教経の姿を飾る。

 

見返し 石割桜

演題解説

盛岡の名所のひとつに石割桜がある。

この石割桜は、南部藩の家老だった北家の屋敷跡で、

花崗岩にひび割れができ、桜の種が落ち込んで、

生育したものだといわれている。

 

盛岡市 青山組 風流 壇ノ浦の戦い 

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演題解説

平安末期、源義経を総大将とする源氏は、平家追討の軍を進め、

「逆落とし」の奇襲で、一ノ谷を一挙に攻落し、屋島にて源義経に破られて海上に浮かんだ平氏は、

山陽および北九州地方が源範頼の手に落ちて退路を断たれたため、

義経を将とする源軍と壇ノ浦で最後の一戦を試み、ついに敗れた。

大将の平宗盛はとらわれ、その他一族諸将はほとんど討ち死に、

平氏に奉ぜられた安徳帝は三種の神器を携えて、二位尼と共に入水し、

長らく続いた源平の合戦はここに幕を閉じた。

 

本年は、「八艘跳び」に加え、この義経・弁慶を飾った「壇ノ浦の戦い」が出場し、

壇ノ浦物が2つも見られた。

 

見返し 静御前

 

演題解説

奥州落ちの義経を慕い、吉野山まで供をした静御前だったが、義経を無事に逃がすため、

自ら鎌倉方の追っ手に捕まる。義経の供をする、静御前の姿を飾った山車。

 

 

盛岡市加賀野 の組 風流 歌舞伎十八番の内 暫

 

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演題解説

鶴岡八幡宮にて、悪人・清原武衡に言いがかりをつけられた加茂次郎義綱らが

襲われそうになったとき、歌舞伎界のヒーロー、鎌倉権五郎景政が「しばらく、しばらく」

の声とともに花道より登場する、成田屋(市川家)十八番のお家芸でも最も有名な演題の一つである。

 

見返し わんこ娘

 

演題解説

わんこそばは盛岡名物として名高いが、花巻まで含む内陸地方に伝わる郷土料理である。

わんこそばと言えば、そばを配る南部姉っこが有名である。

給仕の南部姉っことのふたを閉じる駆け引きもまた、わんこそばの趣向の一つと言えよう。

この山車では「はいどんどん、はいじゃんじゃん」と、今にも声が聞こえてきそうなかわいらしい

わんこ娘を見返しに飾る。

 

 

盛岡市中野 と組 風流 大楠公(楠木正成)

 

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演題解説

楠木正成は、南北朝時代に活躍した河内の武将で、鎌倉幕府からは「悪党」とも呼ばれた。

足利尊氏らと共に後醍醐天皇を奉じ、建武政権樹立に大きな勲功を上げ、天皇の信任も厚かった。

その後、尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、これを九州に追いやり、後も一貫して勤皇の士として戦った。

翌年、尊氏が大挙九州より東上。この時、正成は尊氏との和睦を進言するが容認されず、

次いで、一旦天皇の京都からの撤退を進言するがこれも却下され、絶望の状況下で挑んだ湊川の合戦に敗れ、

弟である正季と差し違えて壮烈な最期を遂げたのである。

 

 

 

見返し 福招

 演題解説

今では一般的な「招き猫」であるが、その由来には以下のような話がある。

江戸時代、彦根藩第二代藩主・井伊直孝が豪徳寺の前を通りかかったときに、

和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため、寺に立ち寄り休憩した。

すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、

後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。

和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった

招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになったのである。

 

盛岡市神子田 盛山會さ組 風流 根元草摺引 曾我五郎時致 

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演題解説

工藤祐経を父の敵とねらう曾我五郎時致は、正月の宴席で兄十郎祐成が嬲られていると聞き、

兄を救うため家重大の逆沢潟の鎧をもって駆け出そうとする。

それを小林朝日奈が鎧の草摺を持って引き止める場面。

 

見返し 化粧師 富沢茂

 

演題解説

 盛岡山車に欠かせない番付の絵や、押し絵の絵師として活躍され、

また日本舞踊の化粧師としても活躍した富沢茂氏。

氏の逝去を惜しみ、盛山會さ組は、この年見返しとして生前の富沢氏の姿を飾った。

 

 

 

盛岡市 城西組  風流 歌舞伎十八番の内 解脱 釣鐘景清

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演題解説

遊女阿古屋を溺愛して平家の宝刀を奪われた景清が邪淫に

陥った身を悔やみ阿古屋を釣鐘の中に閉じこめ煩悩から解脱をはかる歌舞伎の一場面です。

 

 

見返し 京鹿子娘道成寺

 

演題解説

紀州道成寺に伝わる安珍・清姫の伝説を歌舞伎に舞踊化。

舞台は桜が満開の道成寺。再興した鐘の供養が始まろうとしている。

そこに清姫の亡霊が白拍子となって現れ、舞を見せているうちに

鐘に飛び込み蛇体となって現れるが、押戻しによって屈服させられる。

 

 

 

盛岡市長田町 三番組 風流 児雷也

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演題解説

日本の伝説上の大盗賊として名高い児雷也であるが、

この児雷也の盗賊としての人生は、越後(新潟県)の妙高山の山中において、仙素道人という道人に出会うところに始まる。

そこで、実は自分が筑紫潟益城郡城主・尾形弘澄の子であると知り、また父・尾形が謀反の濡れ衣を着せられ、

挙句、攻め滅ぼされたことを知る。

そこで、お家の再興と父の仇討ちのために、蝦蟇の妖術を授かり、盗賊を行ったのである。

 

この山車では、仙素道人と児雷也が妙高山の山中にて出会う場面を飾っている。

また、この年、三番組は番屋開設200周年という記念の年であった。

 

 

見返し 矢口の渡し

演題解説

明和七年(1770)1月16日、江戸の外記座で初演された歌舞伎「神霊矢口渡」より

「矢口の渡し」で、恋のため我が身を犠牲にする娘の物語である。

 

盛岡観光協会 風流 押戻 国姓爺竹抜五郎

 

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演題解説

歌舞伎十八番の内 押戻の初演は、享保12年3月中村座で「国性爺竹抜五郎」として行われ、

高下駄に、鯉の滝のぼりのどてらという衣裳で右手に青竹を持って演じたといわれている。

 

見返し 藤娘

 

演題解説

歌舞伎「歌へすがへす余波大津絵」より。藤の花の精が、娘の姿で現れ、

夕暮れの鐘の音とともに消えていく。

藤の枝を片手に、黒塗りのかさを被って優雅に踊る。

日本舞踊としても有名な本題は、昔から人気が高かったといわれている。

 

 

 

 

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