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盛岡山車は、盛岡八幡宮例大祭(毎年9月13〜16日)において奉納されるもので、 約300年前の宝永六年(1709)より続く由緒あるお祭りです。
(2009年は、盛岡山車300年の節目でした!!)
そもそも、この「山車」(だし)という言葉の由来は、 神社の祭礼のときに、様々な飾り付けをした屋台で神の依り代として、 突き出た鉾の先につけた編み残しの竹を垂らした籠のことを 「出し」と言ったのが始まりといわれています。
大阪を中心とした関西では「壇尻」あるいは「山」といわれ、 その名残として、現在の岸和田だんじり祭りや、京都・祇園会の山鉾に受け継がれています。
それが時代や地方に散らばる中、様々に変化していき、 盛岡では現在の盛岡山車の形になったのです。 |
例:京都・祇園祭、鶏鉾と呼ばれる山鉾の図 |
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盛岡山車の起源は、東京・浅草三社祭や神田祭、 京都祇園祭などにあると言われておりますが、 当ページのこれまでの調査によると、神田祭や山王祭、赤坂氷川神社例大祭といった 江戸随一のお祭りを起源としているようです。
「川越まつり」を紹介する埼玉県川越市の川越まつり会館に、 江戸の天下祭(神田祭・山王祭の山車や神輿が一同に会し、江戸城内に曳き入れ、 時の将軍に拝謁を許されたお祭りです)の図が紹介されておりますが、 この「天下祭の山車」を見るに、盛岡山車の姿と酷似しているのです。
これは推測ですが、時の藩公が参勤交代等で江戸に上った際に、 この天下祭を見て、盛岡に戻った際に、その祭りの文化を 取り入れていったのではないかと考えられます。
その論拠として、
��南部藩邸と日枝神社の立地 ��山車の形状
の2つのことが挙げられます。
�,砲弔い討蓮�現在の赤坂・日枝神社から徒歩15分ほどの場所に、 「南部坂」という地名が今も残っていることが挙げられます。
この南部坂は、忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」でも有名な場所で、 赤穂浪士討入の首謀者・大石内蔵助が、討入の前日に、 主君であった浅野内匠頭の未亡人の許(赤穂藩邸)に赴き、 暇乞いをするという有名な場所ですが、そもそも「南部坂」という地名になったのは、 この場所が、明暦2年(1656年)以前は、「南部藩邸」だったことによるものです。
ちなみに明暦2年以降、南部藩邸は現在の港区南麻布付近に移転しており、 南麻布4丁目付近にも、「南部坂」という地名が現在も存在しております。
いずれにしても、 盛岡山車導入の50年以前に、 盛岡山車の源流と思われる山王祭の祭神・日枝神社のお膝元に藩邸があったこと、
そして、移転後であっても、
江戸随一のお祭りである山王祭の山車を、かつて日枝神社の傍であった 南部藩邸に仕える人々が知らないことはあり得ない
というところが、第1の理由です。
�△砲弔い討蓮�記録によれば、ごく初期の盛岡の山車は、 「神社祭禮の節車にて、練り物を曳く事物を配るに車に載せて曳く事は皆御代に初る」とあり、 丁印と同様に、肩に載せて担いで練り歩く、神輿と同様のものだったようですが、 上記の天下祭の絵をよく見ると、これも肩に担いでいるように見えます。
台車に載せて山車の巡行が始まると、 盛岡山車の形状は、「2輪」の大八車の上に「八幡宮」の万燈を建て、 その上に人形を飾りつけました。
この形状は、「一本柱万度型」といって、山王祭の山車に起源を持つ形状として 各地に広がった形状で、同様の形状の山車が、 静岡県掛川市の遠州横須賀三熊野神社大祭に現在も残っております。
この記録が正しければ、間違いなく、盛岡の山車は、 江戸・天下祭、神田祭や山王祭の系譜を継いでいる祭りであるといえるのではないでしょうか。
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図・中央:山王祭 佐内町 浦嶋人形の山車(天下祭より) 図・右:山王祭 山下町 宝船の山車(天下祭より) |
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江戸時代の山車は、盛岡城下二十三町それぞれで山車が作られておりました。
右の図は、当時の神輿渡御(現在の八幡下り)の様子です。
当時は、演題の乗る盆の上には、八幡宮に奉納する幟などが乗り、 各町がこぞって山車の高さを競ったと伝わります。
行列は、新八幡宮(現在の盛岡八幡宮)から、 盛岡城内の鳩森八幡社に向かって行くのが当時のルートでしたが、 中にはあまりの高さに当時の内丸の門をくぐることができず、 中の橋で控えた山車もあったそうです。 (出典:盛岡山車300年記念式典で放映されたVTRの説明より)
また、当時は山車のためにその年の収入がふいになっても惜しくないというような意気込みで、 各組が山車の豪華さをも競い合い、山車に対して粋な取り組み方をしていたようです。 |
図:江戸時代の神輿渡御の様子(神輿に続いて、祭り舞台、山車、鹿踊り等が続く) |
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当時の山車の豪華さ、祭りを華やかさを今に伝えるものがあります。
川越まつり会館には、天下祭の絵と共に、文化・文政年間に書かれたといわれる 「諸国御祭禮番付」というものが紹介されております。
これは、東西の祭りを番付として紹介しているもので、この番付の二段目に 盛岡の秋まつりと思わしき記載があります。
文化・文政年間の頃であれば、盛岡でも山車行事が始まって100年余り。 その豪華さが、江戸でも評価されていたのではないかと思われます。 |
写真:諸国御祭禮番付(川越まつり会館にて撮影) |
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この頃の山車は江戸周辺の山車と同じく、 各町ごとに決まった演題があり、演題を変えないものでした。
例えば嘉永年間(1848〜1853)の山車の一例は、
とあり、見返しもなければ、 最上部の演題はその場で変えられるような設計であったようで、こう見ると、 鉾山車のような江戸型山車だったのではないかという疑いが強くなります。
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例:獅子頭を祀った山車 (延宝九年八月十五日 狩野養朴下絵書・出目源七作) |
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また、盛岡山車の「山車囃子」や「山車音頭」は、 「手子舞」や「金棒曳」は、神田祭に習ったそうです。 |
図:手古舞(神田祭) |
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こうして現在に繋がるスタイルが確立されてきた盛岡山車は、 大政奉還、戊辰戦争、文明開化という江戸から明治への時代の移り変わりと共に、 大きな変革の時を迎えるのです。
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