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那須与一宗隆(なすのよいちむねたか)―。

平安末期の武将で、那須資隆の十一男。

 

 

源義経の軍に従軍し、屋島の合戦に出陣。

 

一の谷の戦い、屋島の合戦の2度、

思わぬ奇襲によって陸戦に敗れた平家軍は、

得意の海戦で形成を立て直そうと舟で沖合に逃げる。

 

これを追って、海辺に陣を構える義経軍。

 

すると、平家軍は扇を立てた小舟を流し、
「この扇を射ることのできる者はおるか?

戦の行く末を占おうぞ」と挑発。

激怒した源氏方の大将・源義経は、
家臣の中で、弓の名人を探し、那須与一宗隆を指名する。

 

与一は、波打ち際に馬を進めると、矢をつがえ、

 

「南無八幡台菩薩、我が国の神明、日光の権現、那須の湯泉大明神。
願わくはあの扇の真中射させ給え。これを射損ずるならば、
弓を折り、自害しなければ申し訳が立ち申さぬ。
今一度、那須へ帰らせたいと思し召さば、
この矢、外させたもうな。」

と呟き、目を見開き矢を放つと、

見る見るその矢は、扇の要を打ち抜き、
扇はひらひらと波間に落ちていくのであった。

 

那須与一のこの一矢は、源氏の士気を大いに高め、

この後、海戦となった壇ノ浦の戦いで、平家は滅んでいくのである。

 

本年の山車は、波間に馬で乗り出し、

矢をつがえんと構える与一宗隆の雄姿を飾る。

 

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盛岡市本宮に鎮座する大宮神社は、

平安時代初期、坂上田村麻呂が戦勝を祈願して

建立された約1200年の歴史を誇る古社である。

 

この祭神は、「豊受大神宮」といって、

伊勢神宮外宮の祭神である。

 

豊受大神宮は、食物・穀物を司る女神。

伊勢神宮外宮の社伝によれば、
もともとは丹波国(主に現在の兵庫)に
祀られていたものを、雄略天皇の夢枕に
伊勢神宮の祭神である天照大神が立ち
「自分一人では食事が安らかにできないので、
丹波国にいる御饌の神、等由気大神を
近くに呼び寄せなさい」ということで、
現在の伊勢神宮に遷宮されたものと伝わる。

その祭神を、分祀したのが大宮神社ということで、
現在では、盛岡の五穀豊穣を司る神として
祀られているのである。

 

大宮神楽は、その大宮神社に奉納される神楽で、

天保9年(1838年)に編纂された神楽本には、

全18演目が記されている。

 

藩政期には、盛岡城内で幾度も神楽が披露されたという

記録があり、また、藩公(時の藩主)から下賜された神楽衣装

も残っているなど、県内でも随一の由緒ある神楽である。

 

本年の見返しには、この神楽の姿を飾る。

 

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